イカリ

2020/11/30

荒木建策(放送作家/ アリゴ座主宰)

近所にこじんまりしたBARがある。マスターは75歳。
刻まれたシワが人生を物語っている。
ある晩、店を始めた理由、これまでの苦労、お酒のこと、酔いに任せてあれこれ質問してみた。
その度に孫に語るような優しい口調で言葉が返ってきたのだが、どうしても聞けないことがあった。
小さな店内に、異様な存在感を放つ大きな船の模型が置いてあるのだ。
「この船、すごいですね。マスターが作ったんですか」と聞いてもいいが、
その船からは触れてはいけないオーラみたいなものが出ていた。
喜びというよりは、怒りや悲しみ。
この船には、何かがある。
昔、船旅をした娘が不慮の事故に遭い、その船と同じ型のものを目の前に置くことで過去と戦っているのか。
もしくは誰か大切な人の形見だろうか。親友の大事な忘れ形見。
軽々しく聞けるものではない。ただ、どうしても知りたい。あの船から発せられるパワーの意味を。
私は意を決した。失礼にならぬよう、リスペクトを込めて相手の目を強く見て聞いてみた。
あの船はなんですか、と。
「あれはね、デアゴスティーニ。全部完成するのに10万ぐらいかかったかな。チッ」
さっきまで穏やかだったのに、怒りの空気が場に漂う。
間違っていなかった。やはり、あの船はイカリに満ちていたのだ。船だけに。