イカの口っス~イカロスの翼症候群

2025/06/02

荒木建策(放送作家/脚本家)

放送作家をやっていると、
グルメ番組を担当することも多く、
全国津々浦々の美味いものを知り尽くす
グルメ専門と言っても過言ではない
放送作家も多数いる。

故に「グルメ作家」と呼ばれる先輩から
飯に誘われたときは、
自ずとテンションが上がるもの。

互いが、その日いる場所と時間によるが、
グルメ作家が連れて行ってくれる店は、
軒並み名店ばかりだからである。

その日は赤坂だった。
先輩もTBSでの仕事。
しかし、私の方が終わりの時間が遅く、
先輩を待たせることになったのだが、
局内の「PRONTO」で仕事をしながら
待っているから大丈夫とのことで、
18時頃を目安に合流することとなった。

ところが、
先輩はロビーで待ち合わせたときには
すでに酔っていた。
ご存じの方も多いと思うが
PRONTOは17時になると
カフェタイムからバータイムへと切り替えられる。
そして、18時まではハッピーアワー。
それをいいことに、
先輩はビールをジョッキで3杯いったという。

挙句…
「今日は、荒木くんのオススメの店に
連れて行ってもらおうかなー!!」
と宣う。

今日は先輩オススメの店に
連れて行ってくれると思っていたのに…
と思いながらも、実はその時期、
私の口はイカになっていた。
(物理的にイカの口になっていたわけではなく、
イカが食べたい時期だったという意味)

だから、これは僥倖と赤坂のどまん中にある
そのまんまの店名の
イカを押している某居酒屋へ向かうことに。
こんなタイミングで念願のイカに
ありつけるとあって私の心は弾む。

ところが道中、
酒が回ってきたのか、
先輩は仏の田中(仮)から業界内の噂をばらまく
ゴシップ田中になっていた。
着いてからも先輩の舌は絶好調。
それこそスポーツ新聞の見出しなら
「舌好調」と表記されるほどキレキレで、
まるで芸人と呑んでいるような気分になった。

あれこれ注文して、
一口食べただけで僕はもういらないと言い出すし、
口にするのは日本酒と味噌汁の水物だけ。
ここまでおいしい料理を、
一口だけつまんで箸をぴくりとも動かさなくなるのは、
料理の鉄人に出演していた岸朝子ぐらいで、
おいしゅうございましたも言えないとなれば
それ以下。

如何ともしがたい雰囲気の中に置かれた私が
政治家なら遺憾の意を表明しているところで、
まさに『怒り新党』を立ち上げる。
(※先輩の過去作)

思うに、
酒の席で話が開花するのは、
各方位から放たれる穏やかな愛、
もしくは、やさしさが理由だ。
そして何より、
うまいと感じるのは素材ではなく環境であることを、
イカを一匹(4,480円)注文し、
私にそのすべてを託した先輩はどうか学んでほしい。
まさに「イカロスの翼症候群」。

結果、
きれいに10等分されたイカを先輩が食べたのは、
たったの一切れ。
イカがあの日の皿と文章の上で泣いている。