おもてなしの精神

2021/03/08

荒木建策(放送作家/ アリゴ座主宰)

運動不足を感じて外をぶらりと散歩する。
ここに引っ越してきて2年が経つけれど、周りのことなんて何ひとつ知らなかった。
歩いてみると、様々な発見がある。
特に目立つのは飲食店で、メイン通りから少し外れたところには、
隠れた名店を予感させる佇まいの店がいくつかある。
中でも気になったのはインドカレーの店。
何度か前を通ったが、店を出る客を見送る際、
大きな声で「あにゃにゃーしたー!」と、深くお辞儀する姿が印象的で、普段は食で冒険しない私を動かした。
「いらっにゃーせー!」個性的なお出迎え。
さて、何にしようか。
ベタにチキンカレーでいってみるか。
あとはライスかナンの選択だけど、申し訳ないが、
インドカレーの店で口に合うライスを食べたことがないのでナンを選択。
さらに決め手となったのは、店主の想いが書かれた貼り紙である。
要約すると、ナンを提供する店では安価を求めるために専用の窯を使わないことがある。
モチモチした食感を出すには窯にこだわるのは当然で、窯を使わない店はクソだ。
こういった内容だった。
さて、その自慢の窯で焼いたナンだが、たしかに美味い。
パリッとした表面、中はモチモチで、カレーに絡めると絶品。心ゆくまで堪能してやろう。
そう思って腕まくりしたところで仕事の電話。要した時間は8分。
目の前のカレーとナンはすっかり冷めていた。
まぁ、冷めても美味しいだろうから、別にいいか。
ゆっくり手を伸ばそうとすると、店員さんが近寄ってきて「あたためっしょーか?」と言ってきた。
せっかくだから、お言葉に甘えてレンジで一発温めてくださいなと、頼んだわけだが、5分ほど待っても来ない。
もしや、食事中の電話はインドでは重罪で逆鱗に触れたのか。
だんだん、怖くなってきて、そろそろ逃げ道を確保しようと考え出したときに再び運ばれてきたのは、
温め直したものではなかった。作り直したものだった。
泣きそうになった。
食事中に電話をしてしまったことを恥じながら、
ちょっぴり辛く優しい味のするカレーを涙をこらえて完食した。
日本人よりもおもてなしの精神を持った外国人が、私の住む街にいる。
住めば都というが、自分が生活する街とは長く付き合っていかなければならない。
もっと深く知れば、生活が、人生が楽しくなることを知った。
「あにゃにゃーしたー!」
元気な声を背中に受け、街を眺めると、いつもよりちょっとだけ美しく見えた。