ファンシーたれ

2023/07/17

荒木建策(放送作家/アリゴ座主宰)

親ガチャ、子ガチャ、上司ガチャに先生ガチャ。
昨今、運要素を含んだ事象を
「~ガチャ」と呼ぶことが増え、
多くは、「ハズレを引いた」と語られる中で
使用されている。

ところが、
昭和生まれの私は、
これに関して少し疑問というか違和感があるのだ。
何故なら...
ガチャの中身に期待したことがないから、である。

昭和の時代のガチャの中身は、
総じて「ファンシー」だった。
大人から見たらゴミ同然。
しかし、子どもが何故か貴重なお小遣いを
はたいてまで買ってしまうような
絶妙な魅力を秘めたガラクタ。

スライム、
ゴム人形、
煙の出るタバコ(おもちゃ)、
笑い袋、
ちっちゃいスタンガン、などなど、
要らない人には本当にゴミだが、
なんか集めてしまいそうな
ファンシーなガラクタが詰まったBOX、
それが我々世代の「ガチャ」だったのである。

だが、今は違う。
ガチャは高額化し、
中身もそれなりのモノが入っている。
1000円ガチャなんてものまであって、
ゲーム機が当たったりする。
大人も頷くクオリティの玩具が当たったりする。
誰にとっても当たりが当たり、ハズレはハズレ。

果たして、
そんなガチャって面白いのか?
人によっては当たりとも取れなくない
ファンシーなものにこそ
ロマンがあるのではないのか?

親ガチャにしたってそうだ。
今の親は「良い親」を目指そうとしすぎていないか?
他の誰かが決めた良い親像に
自分を当て嵌めにいっていないか?
「当たり」になろうとしていないか?
ザ・没個性。

本来のガチャ同様、
親ガチャ、先生ガチャなどについても
理想のパパ像、ママ像、理想の教師像が
出来上がってしまったせいで、
本来のガチャにあった
中身の良し悪しを判断するのは購入者という
前提がなくなってしまっている。

選べないのは、仕方ない。
だが、それを良いか悪いかを判断するのは、
他人ではなく、購入者である自分なのだ。
気の持ちようによって良くも悪くもなる。
どうしようもなく嫌だったら捨てればいい。

「ガチャ」と表現するのであれば当然だ。

そして...
中身の景品である我々大人も
自分が当たりなのかハズレなのか、
そんなことには捕われずに、
当たりなのかハズレなのかすら判断もつかないような
ある種のファンシーさを持つべきなのかも知れない。