というワケで

2024/01/22

荒木建策(放送作家/アリゴ座主宰)

何気無い一言が人を救うこともあれば、
深い悲しみを背負わせることもある。
私は昨年、ある人に対して放った一言で
後悔しているものがあって、
その人と接する度に申し訳ない気持ちになる。

あれは、12月の上旬だった。
同じ番組を担当している
先輩作家と久しぶりにお酒を飲むことになって、
ちょうど日が沈んだころに暖簾をくぐったわけだが、
先輩は、席に着くなり愚痴。

どこから仕入れた情報なのか、
業界のゴシップネタを織り交ぜた
愚痴の嵐が飛んできて、
喋るだけ喋った話の最後には、
いつもの締め言葉
「まぁ、俺は別にどうでもいいんだけどね」を
発動した。

それが可愛らしくもあるのだが、
どうでもいい話を延々と聞かされた手前、
少し腹が立ったから軽くいじめてやろうと、
先輩の文章のクセを指摘したら、
顔を真っ赤にして照れ始めた。

「先輩はナレーションを書くとき、
話の切り替えに『というワケで』を多用しますよね。
5分くらいのコーナーでも必ず一回は入ってる」

「そうなんだよ。
よく知ってるね。
荒木くんはよくチェックしてくれてるなぁ。
うれしいなぁ」とは言うものの、
顔は真っ赤で、照れているのがありありとわかる。

畳みかけるように、
というワケでの「ワケ」はなんでカタカナなんですか?
こだわりなんですかと問い詰めたら、
もうノックアウト寸前。
顔を赤提灯よりも真っ赤に染めて、
お願いだからもう言わないでくれと泣きついてきた。

こういう顛末があり、
おもちゃを見つけた子どものように、
次に会ったらまた言ってやろうと、
機会をうかがっていたわけだが、
今になって茶化しすぎたことを深く反省している。

それからというもの、
先輩のナレーション原稿から
「というワケで」がパタリと消えたのだ。
理由を聞くと、
もう恥ずかしくて使えないとのこと。

ああ、私はなんてことをしてしまったのだ。
何気無いおふざけで、
人の得意技を、
人の表現の自由を奪ってしまったのである。

さらに、翼をもがれたことによって
文章をうまく繋げることができず、
仕事にかかる所要時間をはじめ、
スランプに陥っているというのだ。
まあ、それは言い訳のような気もするが、
少なからず私に責任があるのは間違いない。
かといって謝るのもおかしいし、
無責任に放ってもいられない。
せめて何かできないものかと悩みに悩んだ結果、
私が意思を継ぐという結論に達した。

というワケで、
私が「というワケで」をどんどん使っていこうと思う。
もちろん、このコラムも例外ではない。
恥ずかしいが、仕方ないだろう。