2025/07/07

荒木建策(放送作家/脚本家)

最近の話。
一緒に飲んだ初対面の女性が私を見て、
開口一番こう言った。

「手、綺麗ですね」

手前味噌にはなるが、
私は手を褒められることが多い。
いや、まずは顔面を褒めてくれと
都度思うのだが、
手を褒められて悪い気はしない。

女性が、
男性の手を見ているというのは
よく聞く話で、
ちょっと前までは、バカな話、
ある意味性的な見られ方をしているのかと
誤解していたのだが違うことに気付いた。

手を見るのは、
手の感じから、
その人の歩んできた人生を
推察できるからなのかも知れない。

自分が荒波に揉まれていない
赤ちゃんのような手をしているのは事実で、
褒められても、
何故か少し恥ずかしくなるようになった。
私がピアニストだったら、
手のケアには余念がないだろうし、
素直に喜べるのだろう。
いや、
ピアノを習っていたのに
楽譜の読みかたも忘れたし、
人生に音符がついているような
私には無理だろうか。

話は変わるが…変わっていないかも知れないが、
探偵のような鋭い直感力を持った人間に
手を見られた瞬間、
「あなた、
先生と呼ばれる職に就いていますね?」
と質問されることが、
昔からの憧れだった。
私が本当の意味で先生と呼ばれた最後は、
小学3年生の夏休み明けだろうか。

縁日で見たスーパーボールに
子どもながらに感銘を受け、
レシピも分からぬまま自主製作し、
夏休みの課題研究として提出。
クラスに一人はいるバカだったわけだが、
ただのバカではなく先生と呼ばれた訳は、
そのゲージにある。

ゴムで止められた木製の棒(ハンドル部分)を
ポーンと弾くとスーパーボールが飛んでいき、
勢いのついた玉が釘にぶつかりながら
5点、10点といったポケットに入る。
その釘が完璧な構成で保たれていたと
自負している。

入りそうで入らない、
でも入ったときに気持ちいい、
その微妙なバランスの製作者として
先生と呼ばれたわけだが、
私が作ったパチンコのようなものを見た大人、
もしくは同級生が確率論に支配された
今の世を作ってしまったのではと
後悔している。

ちなみに、中学生のときに
裏ビデオをクラスの男子全員分
ダビングしてあげたときも先生と呼ばれたが、
その話はまた別の機会にでもするとして、
30年前、
手先ひとつで先生と呼ばれた男が
大都会東京で結構頑張って仕事してるのに、
先生と呼ばれないのは悲しいじゃないか。
書いていて、
もっと仕事頑張ろうと思った回。

あ、このコラムを編集してくれている今村さん、
会社の代表の加藤さん、
ホルモン夏冬の大将、
日テレ通販のMDさんたちと
同級生の吉田くんは先生と呼んでくれている。
まだ、あだ名のようなものだけど、
物書きとして素直に嬉しいです。感謝!